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・と・


「写真とカメラ」

    

 

先日、絵描きグループに入っている知人から、「山でも海でも村でも写真を撮る中高年グループとよく出くわす。描くものと撮るものが同じため、場所取り合戦となるので困る。」という話を聞いた。確かに、寿命が延び、経済的にも時間的にもゆとりがあれば、健康的な戸外へ出かけるのは良いことだ。カメラといえば昔は「家1つ買える憧れの品」であったと父から聞いたことがある。使い捨てフィルムカメラがプラットホームの売店で買える今の時代に考えられない差である。

私の場合は、科学好きの小学5年生として「押入れ現像派」でスタート、過去の事実が手元でじんわりと浮かびあがってくる不思議さに取り付かれ、当時800円位の豆カメラを持って今は亡き母や、友達をひっぱり出して困らせたり、近所の犬を撮りに近づきすぎて追っかけられたり、もう夢中であった。
 以来、今日まで40年余り、カメラ雑誌などを参考にカメラ買換え歴は、ニッカ、マミヤ、キャノン、オリンパス、ニコンなど20数台余りになり、今手元にあるのは「ニコンF」と「ニコンF601」と交換レンズ28mm、50mm、85mm、135mm、35-135mm、60-200mmの数本、セコニック露出計2機など相性の良いものだけとなった。しかし、当時から憧れのハッセルブラッドカメラは未だ入手していない。「夢として残しているんだ。」というのは言い訳で、「今は、良い写真を撮れる自信が無い。」というのが実は本音である。


「君が好きなのは、写真とカメラどちらなんだ?」と聞かれるといつも困った。化学としての「写真」と科学の粋「カメラ」の関係は、「目的と手段」あるいは「成果と道具」であり一体不可分である。私の体験から言って「カメラが良いからといって必ずしも上手い写真が撮れるとは限らないが、良い写真を撮るには良いカメラが要る。」のである。良いカメラメーカーは、写真を撮る者の触感は無論、心理的影響まで細やかに配慮し、そのための機構造りに妥協はない。まさに「化学を扱う科学」の分野でなのであり、その努力に敬服している。
 思えば、私はカメラを磨きながら、深く色鮮やかなコーティングが施されたレンズに、いつも安らかな賢者の「瞳」に近いものを感じていた。撮影では、対象を捉え、距離を測り、シャッタースピードと絞り値を決め、ポジションとアングルを求めて私と一体となって動き、そしてレリーズする。瞬間、静かでしっかりした「パシャ」という音と振動が手に伝わって、ようやく我に戻る。1秒間の200分の1、あるいは2000分の1というタイミングを切り取るカメラという道具への信頼感が重要である。レンズ1本をとってみても、歪みや色むらは何十倍も拡大される写真上では許されない。


 また、不思議なことに、レリーズした直後に「良い写真」が撮れたかどうかが分かるし、自分の写真は、どんなに他人の写真が混じっていても区別できる。しかし、気軽にフィルムカメラなどで写したものはだめだ。どうやら、写す時の腰の入れ方が原因のようである。「写った写真」と「撮る写真」の違いと言える。1枚の写真を写すまでのストーリーがまるで違うからであろうか。後者は、前の晩からカメラを磨きながら気合が入って行くのに対して、前者は「買う、写す」という記録係意識にどうしてもなってしまう。どうも、写真を楽しむにはお気軽さは禁物のようだ。

  以上が、ここ数年間パソコンの魅力にとりつかれたまま写真から遠ざかっていて、根は写真好きな私の言い訳である。しかし、「インターネット時代」到来となり、どうやらどちらも活かすことができそうだ。近頃、ご案内のように別ページで自分の写真をお見せするため写真掲載テストをしながら、休日には押入れの奥にしまっていた愛機を取り出して磨き始めている。そして後日、本格的に写真三昧に復帰した証としてハッセルが加わっていることを信じていたい。

               (97 '2 デジタル・カメラ入手前)


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